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● 友達ごっこ --- 調理実習 ●

「……ちゃん、永久ちゃん、よそ見してると危ないって。ただでさえウチの班のコンロ、一本支えが折れてて危ねェんだから」
 哲己くんの声にハッと我に返る。目の前には煤だらけのコンロが。辺りを見回すと、ステンレスの流しに食器棚が目に入る。白髪混じりの家庭科の先生は、一番前の調理台で金切り声で指導している。目の前にいる哲己くんは、エプロンと三角巾を着用してて……そうか、今は調理実習の時間だったんだ。
「あ、ご、ごめんなさい」
 思わず飛び上がり、後ずさってしまう。哲己くんは苦笑いを浮かべながら「何日か前に戻ったみたいだ」と呟いた。
 昨日、あれからずっと眠れなかった。考えれば考えるほど、分からなくなってしまって。
 少し左の流し台の方を見ると、蓮子と向井さんが談笑しながら、きゃべつをちぎっていた。今日のメニューはコールスローサラダとミートソーススパゲティだったっけ。他人事のように思い返しながら、目の前のぐつぐつと沸騰したお湯を見た。
「哲己くん、蓮子の側に行かなくていいの?」
 どうしてだろう。そう言った途端、急に胸がずしりと重くなった。……何だか、哲己くんの返答が怖い。
 少しの沈黙が、永遠のように長く感じられた。
「れに、サ、……今はむしろ永久ちゃんのが、心配だって、今はハルと楽しそうにやってるし、……放っておいてやった方がいいんじゃねーの? そで放っておけねー感じがする」
「わたしが?」
 鼓動が早くなる。
「それって、どういう……」
 顔を上げ、哲己くんの顔を覗こうとした。けれどすぐに視線は逸らされ、誤魔化すかのように「そろそろお湯沸騰したし、パスタ茹でてもいいんじゃねェか?」と言われた。
 いつの間にか蓮子がコンロの側に来ていた。ミートソースの方の具合を見にきたんだろう。 上の空のまま、パスタの袋を開けて、お湯の中に入れた。……正確には、入れたつもりだった。
 哲己くんの「危ない」という声で、やっと我に返る。
 パスタが一ヵ所に固まって入ってしまい、バランスを崩して鍋が倒れてきた。自分の方にお湯がかかるのは分かっていても、足が竦んでしまって動けない。
 ウチの班のコンロ、一本支えが折れてて危ねェんだから−−なぜだかふと、哲己くんの言葉がリフレインされ、目を閉じた。
 けれど。衝撃はあったものの、ちっとも熱くなかった。ぼんやりと目を開けると、わたしが居たはずの場所には蓮子が居た。
「レンレン、レンレン、大丈夫? 痛い、熱い? どうしよう、どうしよう」
 向井さんがしゃがみこんだ蓮子にしがみつき、泣きじゃくるように叫んでる。蓮子はわたしを庇って、お湯を浴びてしまったらしい。白い長袖ブラウスの袖の部分が濡れてしまっている。幸い、腕以外の場所にはお湯を浴びてないみたいだ。
 先生が何か叫びながら真っ青になって駆け寄って来る。けれど、蓮子は大丈夫ですと微笑み、近寄らせようとはしなかった。
 哲己くんは蓮子を強引に立たせ、流しに連れていき、袖を捲り、思い切り水を出した。袖を捲った瞬間、哲己くんの表情が驚いたように固まる。
 ……そんなにも酷い火傷だったの? けれど、それを知ってしまっても、わたしは動けなかった。足はがくがく震える。
「……ごめんなさい」
「そだよ。小椋っちが! 小椋っちがボーッとしてるから! どうしてレンレンがこんな目に遭わなくちゃなんないの?」
「ハル! ……私は大丈夫だから。あんまり永久を攻めないでよ」
 向井さんは叱られた子供のように、蓮子の側に寄ると彼女のエプロンの裾を掴んだ。
 蓮子が顔を上げて、笑う。まるで何事も無かったかのように。
「永久もあんま気にしないで。……大体永久がまともにお湯被ってたら、大惨事でしょ。反射神経ゼロだし。私だったからこの程度で済んだんだって」 
「でも……」 
「大丈夫だって! ね、こてっちゃん」 
 蓮子は哲己くんを振り返る。けれど、哲己くんは相変わらず凝り固まった表情のまま「ああ」と歯切れが悪い返事をしただけ。わたしに気を使って嘘をついているっていうのが、バレバレだ。 
「取り敢えず、制服濡れちゃったから、着替えないとなー」 
「でもでも、まずは保健室だよ。薬! 火傷の薬!」 
「……そうだよ。俺、付き添うから」 
 哲己くんはいつもより低い声でゆっくりと告げた。すぐに向井さんが跳びはねながら、自分の鼻先を指さす。 
「あ、なら、ハルも。行く」 
「ダーメ、ハルは居残り。大勢で行っても、サボリだと思われるだけっしょ。エスコート役はこてっちゃんだけで十分」 
「レンレンー」 
「先生ー、蓮子サンを保健室に連れてくんで、後の始末の方はお願いします」 
 哲己くんと蓮子が調理室を後にした。 
 わたしはといえば、……相変わらずコンロ前に立ちつくすことしかできなかった。 

 

 保健室のドアに近づく度に、少しずつ怖くなっていく。まだ授業中の廊下には、人の気配がない。ただただ上履きを履いた自分の足音だけが、リノリウム張りの廊下に響き渡った。ゴムとゴムが擦れるような鈍い音。 
 結局、蓮子と哲己くんは、調理室に戻ってこなかった。……それほどまでに、蓮子の火傷は酷かったのかもしれない。 
 授業をサボったのなんて初めて。でも、今教室で平然と授業を受けるだなんて、わたしには出来なかった。 
 保健室に近づくと、自分の足音以外の音も廊下に聞こえ始めた。何を言っているのかは分からないけれど、多分蓮子と哲己くんの声。覚悟を決めて、足を早めた。けれど二人の声がはっきりと聞き分けられるようになった位置で、ふとわたしは立ち止まった。すすり泣くような、嗚咽交じりの声が聞こえたからだ。 
 ……それが蓮子の声だと理解するのに、少し時間がかかった。蓮子が、泣いてる? そんな馬鹿な。だって蓮子は、いつだって強くて、決して泣いたりなんかしないで、前向きで、……いつだってわたしの憧れだったのに。 
「お願い。このこと、永久にだけは言わないで」 
 低く紡ぎ出された蓮子の言葉で、わたしの思考回路は完全に停止してしまった。 
 ……わたしは蓮子にとって、「友達」にすらなれなかったのかもしれない。 
 脱力して座り込んだ廊下は、雨のせいで濡れていて、冷え冷えとしていた。 
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